ヨーロッパ三大バブルヨーロッパ三大バブル

チューリップ・バブルやミシシッピ計画、南海泡沫事件はヨーロッパの三大バブルといわれています。これらのバブルによって私たちは何を学べば良いのでしょうか。バブルが起こった背景、そのしくみについてお話しします。

オランダ「チューリップ・バブル」

チューリップ・バブルは、1637年に世界で初めて起こったバブルでした。オランダではチューリップの球根が人気になり、異常な高値になりました。

背景

1610年代、チューリップの球根はなかなか入手しにくく、愛好家たちの間で高値がついていました。チューリップそのものには興味のない投機家たちが1637年に現れ、球根1個に家が交換されるようになりました。やがて、そういった話が一般の農家や職人にも伝わるようになりました。元手がないこの人たちは、入手しやすい球根から転売を始め、利益を上げていきました。これが先物取引制度の始まりでもありました。しかし、あまりに高くなりすぎると普通の人は買えなくなるものです。チューリップ愛好家の人たちも手が出せなくなってしまいました。

急落

1637年2月になると、誰も買い手がつかず価格が暴落、混乱を巻き起こしました。議会のチューリップの取引を保留するという決定によって落ち着きを取り戻したのですが、なぜ一般の人が投機に走ったのか、いくつかの説がありますが、はっきりとした原因は解明されていません。

イギリス「南海泡沫事件」

背景

1712年、イギリス政府は財政危機を救うため「南海会社(South Sea Company)」という会社を設立し、会社に南米及び南太平洋の貿易の独占権を与えました。株式の発行になると、独占権から巨額の利益が出るのではないかという期待が高まり、いっきに過熱しました。そして当初300ポンドだった株は1.000ポンドになるという、会社の実態からかけ離れた株の高騰が起きたのです。バブルの発生です。なぜこれだけ期待が高まったのかというと、国王と議会が7.000万ポンドの資金を提供したという情報が流れたからなのです。その後も熱気は収まらず、投資家たちは新たな南海会社を求めました。「南海」という名がつけられた新手の会社に惜しみなく資金を投入しました。

新手の南海会社

では、新手の南海会社がどのようなものだったのかというと、人の髪の毛を輸入する会社やこどもの未来を保証する会社など、期待させるのに充分な内容だったといわれています。しかし、これらの会社は、お金を集めるとすぐに消えてしまう会社も多く、バブルと呼ばれるようになりました。

暴落

1720年8月、あまりにも高値がついている自社の株を不安に思った経営陣が、株を手放しました。このことによってあっという間に株価は暴落し、12月には124ポンドになってしまいました。1721年、イギリスはバブル防止法を制定、企業に新たに株式公開することを禁止しました。それは100年の間続き、イギリスに大きな打撃となったのです。

冷静な人も狂わせる

その頃、イギリスの科学者にニュートンがいました。ある日、ニュートンの耳に南海会社の騒動が耳に届きました。ニュートンは「これはおかしい。さしたる根拠もない会社の株がこんなに値上がりするのは解せない」と考え、投機には参加しませんでした。しかし、そんな彼でさえ、周りの友人知人が大もうけしているのを見て、とうとう株を買ってしまったのです。しかし、その直後にバブルは崩壊し、彼は20.000ポンド(今なら1億2.000万円くらい)という大損をしてしまったのでした。

フランス「ミシシッピ計画」

18世紀初頭に北アメリカに植民地を有した、フランスによるミシシッピ川周辺の開発・貿易計画です。

王立銀行設立

当時フランスの財政は破綻していました。そこにスコットランド人のジョン・ローという人物が、王立銀行を設立し株式を販売することを提案しました。支払い方法は1回目を現金、あとの3回は手形で良いとしたため、多くの投資家たちが集まりました。

冒険事業の独占権

そしてローはある計画を立てました。1717年8月に西方会社(Compagnie d’Occident(Company of the West))を設立。南海泡沫事件のように、フランス王室からアメリカにあるフランス領ルイジアナ地区の冒険事業独占権を与えられることによって、大きな富を得るのではないかと考えたのです。西方会社では特に毛皮の輸出と金や銀の採掘を行いました。フランスでは金が貨幣としての機能を持っていました。ルイジアナ地区は広い範囲に及ぶので、フランスでは大きな期待が寄せられました。これをミシシッピ計画といいます。この計画はフランス国外にも広まり、ヨーロッパの投資家たちの注目の的になりました。

貨幣の拡大

1718年12月、フランス王立銀行はフランス王室銀行になり、ローも初代頭取になりました。フランス王室銀行と西方会社の株価は上昇し続けました。当時フランスでは金が貨幣としての機能を持っていたのですが、王立銀行の株式払い込み手形が貨幣として機能するようになったのです。ローは、貨幣の拡大が経済を良くすると考えていました。西方会社はその後、ミシシッピ会社と改め、王立銀行同様に現金と手形によって株式を販売することにしました。ミシシッピ会社はアフリカのタバコ独占貿易権や中国との独占貿易権も取得し、果てしなく拡大していくように思われました。

暴落

1720年、ローは財務長官に任命されました。ローやミシシッピ会社に対する投機は過熱し、混乱を抑えるために軍隊を発動することもありました。当初500ルーブルだった株価が10.000ルーブルまでになったのです。しかし、金や銀の鉱脈はどこにもなく、フランス政府の負債にあてられていました。それでも投資家たちが集まっていたのは、フランス政府やローに対する信用があったからなのです。10.000ルーブルに上がった株は売りに出して利益を出そうという人が出てきました。そして、またたく間に売りに出す人が増え、あっけなく暴落したのです。王立銀行には売りに出す人で殺到し、1720年7月、とうとうローは手形と金の互換性を失効させる宣言をしたのです。1721年9月には、初期の500ルーブルまで下落、多くの株主が大損をしました。ローは自分の身の危険を感じ、イギリスに逃亡したあと、ベネチアで暮らすことになりました。ローに対する評価は、努力をしたしっかりとした事業であったというものと、詐欺だったという評価に大きく分かれています。

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